映画「七人の『死刑囚』」

七人の殉国者が私達を振り返らせる。
あれは…日本の夜明け? それとも…黄昏?


映画「七人の『死刑囚』」作品解説

映画「七人の『死刑囚』」作品解説 刑執行シーン 昭和23年12月23日、皇太子の誕生日。
極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑を言い渡されたいわゆる「A級戦犯」7名の絞首刑が執行された。

松井石根、東條英機、広田弘毅、土肥原賢二、木村兵太郎、板垣征四郎、武藤章。

彼らが何者なのか、どのような罪で裁かれたのか、従容として死に就いた7人のことを、日本人は知らない。

彼らは成敗されてしかるべき「鵺(ぬえ)」だったのか?
真実を見ようとしない日本人は、いわれなき「大虐殺」の咎を未来永劫、背負い続けるのか?

南京攻略戦司令官として「大虐殺」の責任を問われた松井石根大将をはじめとする7人の、刑執行を宣告されてからの最後の24時間を、ただ「事実」のみを伝える貴重な資料映像とともに、史実に忠実に、静かに描く映画「七人の『死刑囚』」。
そこに自ずと見えてくるのは、戦後日本が立ち返るべき原点――。

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キャスト

松井石根(まつい いわね) …… 浜畑賢吉
松井石根(浜畑賢吉)
陸軍大将、中支那方面軍司令官 兼 上海派遣軍司令官
明治11年(1878)−昭和23年(1948) 享年70歳

成城学校から陸軍士官学校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍。自らの希望で中国に駐在。孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援。中国国民党の袁世凱打倒に協力。大亜細亜協会、台湾亜細亜協会等の設立にも尽力。いったんは予備役に編入されるも、日中戦争が起こり現役に復帰。昭和12年、南京攻略戦では、厳しい軍律を課したが、後の東京裁判では、大虐殺の汚名を蒙った。「A級戦犯」として逮捕されるまでは、日中双方の犠牲者を弔う為、熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自ら麓に庵を建てて住み込み、毎朝、観音経をあげる隠遁生活を続けていた。
東條英機(とうじょう ひでき) …… 藤巻 潤
東條英機(藤巻 潤)
首相、陸相、陸軍大将
明治17年(1884)−昭和23年(1948) 享年64歳

陸軍士官学校(17期)、陸軍大学校(27期)卒業。2・26事件の機敏な対応が評価され、関東軍参謀長に就任。昭和15年、第二次および第三次近衛内閣の陸軍大臣となる。昭和16年、木戸内大臣の推薦で内閣総理大臣に就任。陸軍大臣、外務大臣を兼任し、対米開戦を決断。昭和18年には、大東亜共栄圏構想を掲げ、「大東亜会議」を開催。植民地からの独立を目指すアジア各国の希望を具現化する一助を担った。戦局悪化による責任を取り、昭和19年7月、総辞職。謹厳実直で規律に厳しく、清廉で模範的な軍人であり続け、国体護持を第一と考えていた。
広田弘毅(ひろた こうき) …… 寺田 農
広田弘毅(寺田 農)
首相、外相
明治11年(1878)−昭和23年(1948) 享年70歳

軍人志望であったが、日清戦争後の三国干渉を見て「外交こそが大事」と、東京帝国大学法学部卒業後、外務省に入省。欧米局長、駐ソ大使など歴任後、外相に就任。昭和11年、2・26事件後の組閣で首相に就任。「粛軍」を目指すが、陸軍の突き上げにあい、軍部大臣現役武官制を復活させる。翌年1月には総辞職し、貴族院議員となる。第1次近衛内閣で外相に再任されるが、支那事変の拡大を食い止められず辞任。この時、外相であったため、アジア侵略に対する共同謀議、人道の罪に対し、それを制止しなかった不作為を罪状に挙げられ、文官では唯一の絞首刑となった。
土肥原賢二(どいはら けんじ) …… 渥美國泰
土肥原賢二(渥美國泰)
陸軍大将、在満州特務機関長
明治16年(1883)−昭和23年(1948) 享年65歳

陸軍士官学校(16期)、陸軍大学校(24期)卒業。昭和6年、奉天特務機関長に就任。満州事変の翌日には奉天臨時市長に就任。清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を首領とした満州国創立工作の中心的な働きをする。「帝国陸軍きっての中国通」と呼ばれ、欧米人からは「満州のローレンス」と畏怖されたが、性格は温厚、寛容。私欲に走らず、中国人や満州人の面倒をよく見ていたため、中国人からも篤い信頼を得ていた。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。
土肥原賢二役を演じられた渥美國泰氏は、平成21年2月5日に享年76歳でお亡くなりになりました。
謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

木村兵太郎(きむら へいたろう) …… 久保 明
木村兵太郎(久保 明)
陸軍大将、ビルマ方面軍司令官
明治21年(1888)−昭和23年(1948) 享年60歳

陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(28期)卒業。昭和15年、関東軍参謀長。昭和16年4月から昭和18年3月まで陸軍次官。東條首相兼陸相のもと、次官として対米開戦を迎える。昭和19年8月、ビルマ方面軍司令官としてインパール作戦後の建て直しにあたり、敗戦を迎える。東京裁判での罪状には、ビルマでの「捕虜虐待」も加えられていたが、実行者の部下も裁かれていないため、刑を重くするためのだけの「罪状」といわれている。国と家族を大切にする謹厳実直な帝国軍人であった。
板垣征四郎(いたがき せいしろう) …… 山本昌平
板垣征四郎(山本昌平)
陸軍大将、陸相
明治18年(1885)−昭和23年(1948) 享年63歳

陸軍士官学校(16期)、陸軍大学校(28期)卒業。奉天特務機関長に就任後、昭和6年、作戦参謀・石原莞爾らと満州事変を実行。豪放磊落で親分肌の性格から徹底的に部下を信頼して仕事を任せ、責任は自分が負った。昭和11年、関東軍参謀長就任後、第一次近衛内閣・陸相。宇垣外相による日中和平交渉では、「蒋介石の下野」を条件とする強硬派であった。平沼内閣でも陸相を務めた後、支那派遣軍総参謀長に転出。昭和16年、大将に昇進。朝鮮軍司令官を経て、第7方面軍司令官(シンガポール)で敗戦を迎える。
武藤 章(むとう あきら) …… 十貫寺梅軒
武藤 章(十貫寺梅軒)
陸軍中将
明治25年(1892)−昭和23年(1948) 享年56歳

陸軍士官学校(25期)、陸軍大学校(32期)卒業。2・26事件後の「粛軍」で頭角を現し、関東軍参謀に転出。昭和12年、盧溝橋事件では対中国強硬政策を主張。中支方面軍参謀副長として南京攻略を指導。昭和14年、陸軍省軍務局長就任後、徒党を組まず孤高を好む性格が東條に好まれ、右腕となる。日米開戦には反対の立場をとり、対米交渉に積極的であった。近衛師団長(スマトラ)を経て、山下大将の希望で第14方面軍参謀長に就任。フィリピンで終戦を迎えた。
花山信勝(はなやま しんしょう) …… 三上寛
花山信勝(三上寛)
明治31年(1898)−平成7年(1995)

浄土真宗本願寺派の僧侶。石川県金沢市の宗林寺第12代目住職。
昭和21年より巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)の教誨師をつとめ、7人のA級戦犯をはじめとする受刑者達の最期に立ち会った。
その時の様子や感慨を『平和の発見−巣鴨の生と死の記録』に著している。
広田静子(ひろた しずこ) …… 烏丸せつこ
広田静子(烏丸せつこ)
広田弘毅の妻。「パパを楽にしてあげる方法がある」と言い残し、広田への死刑判決が下る前に自ら命を絶った。
松井文子(まつい ふみこ) …… 上村香子
松井文子(上村香子)
松井石根の妻。日中双方の戦死者を弔うために松井が建立した興亜観音を、夫に代わって守り続けた。
  松井久江  …… 小林麻子
  桜の下の男の子  …… 吉越拓矢   桜の下の女の子  …… 吉岡天美
  杉野軍曹  …… 大木 章

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エンディング内「南京攻略戦参戦兵士」インタビュー出演

住民は戦闘前に安全区に避難していた
住民は戦闘前に安全区に避難していた
中国兵はロープを使って南京城から逃走した
中国兵はロープを使って南京城から逃走した
南京入場式
南京入場式
兵農分離の行列
兵農分離の行列
餅つきをする日本兵
餅つきをする日本兵
花火で楽しそうに遊ぶ中国の子供たち
花火で楽しそうに遊ぶ中国の子供たち

映画「南京〜戦線後方記録映画〜」より
(株式会社日本映画新社)
京都第16師団 輜重兵 第16連隊 第6中隊
稲垣 清さん  
平成22年12月1日に逝去されました(享年100歳)。 謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

金沢第9師団 第18旅団 司令部編成要員
斉藤敏胤さん  
平成21年3月5日に逝去されました(享年93歳)。 謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

京都第16師団 師団司令部勤務
家田久須美さん  
平成20年4月12日に逝去されました(享年93歳)。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

金沢第9師団 歩兵第7連隊 第11中隊
納谷 勝さん

京都第16師団 第33連隊 第2大隊 第5中隊 第1小隊長
市川治平さん

熊本第6師団 第13連隊 第3大隊 砲兵小隊
永田尚武さん


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スタッフ

脚本・編集・監督  水島 総
エグゼクティブ・プロデューサー  水島 総
プロデューサー  井上敏治
  
ライン・プロデューサー  渡辺 康
キャスティング・プロデューサー  大原盛雄
音楽  風戸慎介
監督補  川原圭敬
  
撮影  末廣健治
照明  渡辺 康
美術  安藤 篤
録音  山田 均
編集  古俣裕之
記録  高橋タツ子
衣装  川崎健二
メイク  村中幸恵
音響効果  橋本正二
選曲  佐藤 啓
VFXプロデューサー  平 興史


上映時間

2時間50分

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映画に寄せて

当時、日本の報道陣は落城後の南京に入り、二日目からカメラを回して城内を撮影、隅々まで記録している。この貴重なフィルムが映画ではふんだんに使われている。(略)その真実が、百万言を費やされるよりも確実に実感できるに違いない。
(略)それにしても、向こうの映画十本に対してこちらはたった一本。これでは蟷螂の斧にもならない、と思うかもしれない。だが、そうではない。十対〇では確かにサンドバッグである。殴られるままに手放しで殴られているよりしようがない。だが、十対一となると、〇とは話がまるで違う。一の重みは大きい。

渡部昇一氏 (『致知』2008年4月号「歴史の教訓」より抜粋)

「A級戦犯」なる用語は、靖国問題として議論され、新聞やTVでも今日さんざん使われてきたが、そもそも彼等はどんな人物だったのか、如何なる罪状で裁かれたのか、どんな思いで絞首台の露と消えたのか、と我々は深く思い及ぶことはあったのか。彼等(国会議員 ※引用者注)には「南京の真実」をこそ、しっかり観てもらい、国家への責任感と運命を受け入れる胆力に目覚めていただきたい。

富岡幸一郎氏 (『産経新聞』平成20年3月21日「断−『南京の真実』で考えよ」より抜粋)

七人の死刑囚の淡々とした語り、そぶりの中に、観客の脳裏には言いしれぬ深い感動、あるいは哀しみがふつふつと浮かび上がっていく。(略)<A級戦犯>などというおどろおどろしい形容詞とはまったく無縁な、心から国を愛し、家族を愛し、自分の就いた公務に熱心であった極々普通の日本人であった姿が、我々に感動を与えているのである。

田中秀雄氏 (『史』3月号−通巻67号「映画『南京の真実』第一部『七人の死刑囚』の革命性」より抜粋)

評論家の福田恆存は『私の演劇白書』で、自分は能について予備知識がなく、能舞台の楽しみ方も知らないが、しばらくぶりに能を観たとき、最後になって感涙にむせんだと語り、「こういう感動の質は(近代的な)新劇に求めても得られぬものだ」と述べた。『七人の「死刑囚」』の感動についても、同様の特徴が指摘できよう。優れた芸術は理屈を越えた感動をもたらす何かを持っているとすれば、同作品には真に芸術的な要素も見られるのだ。

佐藤健志氏 (『別冊正論』Extra.09 「殺されゆく者たちの正義 『七人の「死刑囚」』が語るもの」より抜粋)

『七人の死刑囚』は、戦後社会とみじんも和解していない。(略)七人のA級戦犯の時世の歌に忠実に、処刑の時間までを緻密に、リアルに描いた『七人の死刑囚』は、自己犠牲の美しさとか個人のヒューマニティといった一般道徳の次元に逃げていない。(略)和解などあり得なかったあの戦争の敵の実在、運命そのものを正面から見据えている。

西尾幹二氏 (『修親』寄稿「天下大乱が近づいている」より抜粋)

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