陸軍大将、中支那方面軍司令官 兼 上海派遣軍司令官
明治11年(1878)−昭和23年(1948) 享年70歳 成城学校から陸軍士官学校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍。自らの希望で中国に駐在。孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援。中国国民党の袁世凱打倒に協力。大亜細亜協会、台湾亜細亜協会等の設立にも尽力。いったんは予備役に編入されるも、日中戦争が起こり現役に復帰。昭和12年、南京攻略戦では、厳しい軍律を課したが、後の東京裁判では、大虐殺の汚名を蒙った。「A級戦犯」として逮捕されるまでは、日中双方の犠牲者を弔う為、熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自ら麓に庵を建てて住み込み、毎朝、観音経をあげる隠遁生活を続けていた。 |
首相、陸相、陸軍大将
明治17年(1884)−昭和23年(1948) 享年64歳 陸軍士官学校(17期)、陸軍大学校(27期)卒業。2・26事件の機敏な対応が評価され、関東軍参謀長に就任。昭和15年、第二次および第三次近衛内閣の陸軍大臣となる。昭和16年、木戸内大臣の推薦で内閣総理大臣に就任。陸軍大臣、外務大臣を兼任し、対米開戦を決断。昭和18年には、大東亜共栄圏構想を掲げ、「大東亜会議」を開催。植民地からの独立を目指すアジア各国の希望を具現化する一助を担った。戦局悪化による責任を取り、昭和19年7月、総辞職。謹厳実直で規律に厳しく、清廉で模範的な軍人であり続け、国体護持を第一と考えていた。 |
首相、外相
明治11年(1878)−昭和23年(1948) 享年70歳 軍人志望であったが、日清戦争後の三国干渉を見て「外交こそが大事」と、東京帝国大学法学部卒業後、外務省に入省。欧米局長、駐ソ大使など歴任後、外相に就任。昭和11年、2・26事件後の組閣で首相に就任。「粛軍」を目指すが、陸軍の突き上げにあい、軍部大臣現役武官制を復活させる。翌年1月には総辞職し、貴族院議員となる。第1次近衛内閣で外相に再任されるが、支那事変の拡大を食い止められず辞任。この時、外相であったため、アジア侵略に対する共同謀議、人道の罪に対し、それを制止しなかった不作為を罪状に挙げられ、文官では唯一の絞首刑となった。 |
陸軍大将、在満州特務機関長
明治16年(1883)−昭和23年(1948) 享年65歳 陸軍士官学校(16期)、陸軍大学校(24期)卒業。昭和6年、奉天特務機関長に就任。満州事変の翌日には奉天臨時市長に就任。清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を首領とした満州国創立工作の中心的な働きをする。「帝国陸軍きっての中国通」と呼ばれ、欧米人からは「満州のローレンス」と畏怖されたが、性格は温厚、寛容。私欲に走らず、中国人や満州人の面倒をよく見ていたため、中国人からも篤い信頼を得ていた。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。 土肥原賢二役を演じられた渥美國泰氏は、平成21年2月5日に享年76歳でお亡くなりになりました。 謹んで御冥福をお祈り申し上げます。 |
陸軍大将、ビルマ方面軍司令官
明治21年(1888)−昭和23年(1948) 享年60歳 陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(28期)卒業。昭和15年、関東軍参謀長。昭和16年4月から昭和18年3月まで陸軍次官。東條首相兼陸相のもと、次官として対米開戦を迎える。昭和19年8月、ビルマ方面軍司令官としてインパール作戦後の建て直しにあたり、敗戦を迎える。東京裁判での罪状には、ビルマでの「捕虜虐待」も加えられていたが、実行者の部下も裁かれていないため、刑を重くするためのだけの「罪状」といわれている。国と家族を大切にする謹厳実直な帝国軍人であった。 |
陸軍大将、陸相
明治18年(1885)−昭和23年(1948) 享年63歳 陸軍士官学校(16期)、陸軍大学校(28期)卒業。奉天特務機関長に就任後、昭和6年、作戦参謀・石原莞爾らと満州事変を実行。豪放磊落で親分肌の性格から徹底的に部下を信頼して仕事を任せ、責任は自分が負った。昭和11年、関東軍参謀長就任後、第一次近衛内閣・陸相。宇垣外相による日中和平交渉では、「蒋介石の下野」を条件とする強硬派であった。平沼内閣でも陸相を務めた後、支那派遣軍総参謀長に転出。昭和16年、大将に昇進。朝鮮軍司令官を経て、第7方面軍司令官(シンガポール)で敗戦を迎える。 |
陸軍中将
明治25年(1892)−昭和23年(1948) 享年56歳 陸軍士官学校(25期)、陸軍大学校(32期)卒業。2・26事件後の「粛軍」で頭角を現し、関東軍参謀に転出。昭和12年、盧溝橋事件では対中国強硬政策を主張。中支方面軍参謀副長として南京攻略を指導。昭和14年、陸軍省軍務局長就任後、徒党を組まず孤高を好む性格が東條に好まれ、右腕となる。日米開戦には反対の立場をとり、対米交渉に積極的であった。近衛師団長(スマトラ)を経て、山下大将の希望で第14方面軍参謀長に就任。フィリピンで終戦を迎えた。 |
明治31年(1898)−平成7年(1995)
浄土真宗本願寺派の僧侶。石川県金沢市の宗林寺第12代目住職。 昭和21年より巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)の教誨師をつとめ、7人のA級戦犯をはじめとする受刑者達の最期に立ち会った。 その時の様子や感慨を『平和の発見−巣鴨の生と死の記録』に著している。 |
広田弘毅の妻。「パパを楽にしてあげる方法がある」と言い残し、広田への死刑判決が下る前に自ら命を絶った。
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松井石根の妻。日中双方の戦死者を弔うために松井が建立した興亜観音を、夫に代わって守り続けた。
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松井久江 | …… 小林麻子 | ||
桜の下の男の子 | …… 吉越拓矢 | 桜の下の女の子 | …… 吉岡天美 |
杉野軍曹 | …… 大木 章 |
住民は戦闘前に安全区に避難していた |
中国兵はロープを使って南京城から逃走した |
南京入場式 |
兵農分離の行列 |
餅つきをする日本兵 |
花火で楽しそうに遊ぶ中国の子供たち |
映画「南京〜戦線後方記録映画〜」より (株式会社日本映画新社) |
脚本・編集・監督 | 水島 総 |
エグゼクティブ・プロデューサー | 水島 総 |
プロデューサー | 井上敏治 |
ライン・プロデューサー | 渡辺 康 |
キャスティング・プロデューサー | 大原盛雄 |
音楽 | 風戸慎介 |
監督補 | 川原圭敬 |
撮影 | 末廣健治 |
照明 | 渡辺 康 |
美術 | 安藤 篤 |
録音 | 山田 均 |
編集 | 古俣裕之 |
記録 | 高橋タツ子 |
衣装 | 川崎健二 |
メイク | 村中幸恵 |
音響効果 | 橋本正二 |
選曲 | 佐藤 啓 |
VFXプロデューサー | 平 興史 |
渡部昇一氏 (『致知』2008年4月号「歴史の教訓」より抜粋)
富岡幸一郎氏 (『産経新聞』平成20年3月21日「断−『南京の真実』で考えよ」より抜粋)
田中秀雄氏 (『史』3月号−通巻67号「映画『南京の真実』第一部『七人の死刑囚』の革命性」より抜粋)
佐藤健志氏 (『別冊正論』Extra.09 「殺されゆく者たちの正義 『七人の「死刑囚」』が語るもの」より抜粋)
西尾幹二氏 (『修親』寄稿「天下大乱が近づいている」より抜粋)